批判する人間とされる人間

「匿名で批判だけする人になるくらいなら、進んで批判される人になれ」

 

といったような趣旨の言葉を以前どこかで見かけた。

この言葉が、脳天突き刺さったような感覚でピンときた。

 

 

物事はあくまで表面的に出ているもの(行動や結果)でしか

当の本人以外には分かりようがなくて、

本当はそこには思いやりや愛があったとしても

結果的に「排除」という選択が行われてしまったら、

周りの人間はその結果から自分の思いたいように捉えてしまうのだ。

 

結果だけを見て批判する人もいるだろう。

その批判に対して共感する人もいるだろう。

むしろそっちが大半だろうと思う。

 

でも、その結果に至るまでにはどんなストーリーがあったのだろう?

最後まで諦めずに誠意を尽くしたのかもしれない。

それでも結果的にそうなってしまったのかもしれない。

そんな背景があったとしても尚、批判するのだろうか?

そんな背景に自分の身が置かれたとしても、同じことが言えるのだろうか?

 

 

私は、批判する側だった。

その背景を聞こうともせずに。

事実を知った時に、思った。

 

私のような人間に対して、いちいち弁解していられないと。

批判される側の人間というのは、そんな暇な時間などないのだ。

 

 

ここで批判される側の人間(つまり、”やる”人間)にとって

大事になってくるのは、自分の中の判断基準。

 

どういう人と自分は関わっていきたいのかを明確にし、

それ以外の人たちを手放す勇気も必要になってくるのだ。

 

手放すというのは、何も見捨てるという意味じゃない。

自分の意図と違った捉え方をされても、足掻かないということだ。

人は所詮自分の捉えたいように捉える。

その人の境遇や生い立ち、経験からでしか物事を考えられない。

もっと言うと、その日の心の健康状態によっても捉え方は変わってくるのだ。

それなのに、全ての人に伝わるように伝えようなんて、到底無理な話。

 

だからこそ、関わりたい人を決める。

何故それをやるのか。

何故それを伝えたいのか。

自分の軸を力強く持つことが大切。

 

これはちょうど今日考えたことだった。

 

有名とされている人みんな、同じ道を経験してきてるのだろうなと思ったら、

批判される側の人間が発する言葉の数々の意味が今ようやく分かってきた。

皆そんなの分かった上で、乗り越えながら自分を表現し続けているのだ。

 

そこまでピンときて、怖いからって発信しないという選択肢は、

もう私にはないなと思った。

 

批判する人っていうのは所詮”やってない人間”であって

批判される側からの景色を見たことがない人たちなのだ。

 

だったら進んで批判される側になろう。