久しぶりの感情日記10月29日(月)

しばらくバタついてて自分との時間が取れてなかった。

最後に感情日記を書いたのは17日か…。

三日坊主もいいとこで驚く。

 

何から書けば良いか…。

えっと、15日に突然のオペ。

もっと自分を解放すればいいのにって言葉に急に泣き出した。

 

ちゃんとしなくてもいい。

いい子でいなくてもいい。

これがテーマになった。

 

その前から自分が一番大事に握りしめてるもの、

一番怖いことを手放すというのがテーマでそれが何なのか探ってた。

 

そのあと、またえぐられるようなことがあった。

その出来事から、

私は自分がそこにいる意味を見出さなきゃいけない、みたいな

恐怖感に駆られていることに気が付いた。

 

今まで私に向かっていた興味が、愛情が、

新しい誰かに向いてしまうのが、とてつもなく怖いのだ。

 

その瞬間、私は自分自身の存在意義を無くす。

とてつもない孤独感に襲われる。

今考えられる限り、これが一番怖いことなんじゃないかなと思う。

 

直近では、

静岡に行った時の外食の帰りの車の中

ゴールデン街

博物館

 

今まで私のものだったのに、「取られる」という感覚が一番近い。

これはもう幼い頃の記憶だろう完全に。

それがフラッシュバックしてるだけなのだ。

 

ただ、これが起きるのって頻度は低いし、

日々の窮屈さみたいのに繋がっているとは思いにくい。。

 

そもそも私って今そんなに何かを解決しなきゃいけないのかな?

今悩んでること

・お金の不安

・引越しができない

・家族からの視線

・自信がない?

 

 

ここまでで分からなくなって一旦やめ。

夜に本音を話せる人と電話した。

そしたら、ここ10日くらい外側だけ走り続けていた感覚だったのが

自分の本来の位置に戻ってきたような、そんな感覚になった。

その感覚に戻したくて本音日記をさっき書き始めのだけど、

人と話してもその感覚になったのって、初めてかも。

 

自分の心の奥の本質的な部分に触れたからだと思う。

その感覚をいつも持っておきたい。

その為には毎日15分でもいいから日記をつけること。

””出来事に対して自分がどう感じたか ””

これを出来る限り詳細に。

 

それから、感情日記は今後もう一つのブログに書こう。

事細かく書きたいから個人情報も出てくるだろうし。 

感情日記10月17日(水)

昨日の夜、話を聞いて

すごく気持ちが分かるのと同時に

イライラしたこと。

 

新しいことが始まるからすごく緊張して何も手につかないこと。

どんな人、どんな場所かも分からない

要領も分からない

だからかな?

 

緊張はまあいいや笑。

イライラのとこ、もう少し深堀りして観察してみよう。

 

言ってることすごく共感できるし

私も全く同じことを言っていたし、

そうなってしまうのもすごく分かる。分かりすぎる。

 

だけど、聞いていて

人のために何もやろうとしないくせに不満ばっか言って。

とすごくイライラした。

彼がどれだけ頑張ってるのかも知っているから余計。

クレクレちゃんだと思った。

 

だけど、気持ちが分かりすぎる。

恵まれた環境にいるのに不満ばっか言って、何も変えようとしない。

なら辞めれば?って思う。すごくイライラする。

だけど、何度もいうけど気持ちが分かりすぎる。

 

イライラと、解決してあげたいと、共感で

ものすごく感情が揺さぶられた。そんな日だった。

感情日記10月16日(火)

今日も感情の振り返り。

 

本当は、もう自分を粗末にしたくない。

ここで、またすごく涙が出た。

対等に話したい。

けど自分は優秀でもなければ面白くもないって条件をつけて

特別枠に入るしかないと思い込んでる。

 

自信がない、その通り。

 

人として素敵だな、かっこいいなと思う人と

対等な関係になりたい。

そこだったよう。

 

ちゃんとしたくない、本当は。

 

それから

咳とくしゃみに異様に反応してしまう。

汚い、下品、とにかく嫌な気持ち。

これも「許せない」感情とリンクしているのだろうなぁと思った。

 

私をあんなに苦しめたのに、自分は同じ事をしてる。

 

あれも同じだ。

私をあんなに苦しめたのに、今更意見を変える。

 

許せない。

ふと、未熟だったんだろうと思った。

それなら私にだってあるじゃないか。

弟はどうなる?同じように私だって未熟だった。

だったらそこを責めるのは違うかもしれない。

いくら苦しくたって、他の選択肢もあったのにそこにいたのは自分だ。

 

許す。

許してあげる。

これが出来たら良さそう。

 

 

終わり

感情日記10月15日(月)

最近また頭が整理できない状況に陥っている。

昔のように、やらなきゃって無理して整理することなく

そういう時期なんだなぁと俯瞰して見れている感じ。

 

それにしても変わらざるを得ない、というか

周りが色々と変化しているのを感じてる。

 

まず会社の体制、代表との関係性。

チーム全員が同じ方向へ変化していること。

家族の問題が進みつつあること。

”本来の私”を見せる、という課題が舞い戻ってきたこと。

そこで突如としてオペが始まったこと。

 

こういうことがありつつ、

今私は自分が感じたことを客観的に観察する時期にしようと決めた。

それは自問をして思考を深めたいというのもあるし、

去年の自分に戻りたいのもあるし、

世界とつながる=自己との対話だなあと再認識したのもあるし。

 

 

今日はオペしたことを書こうと思う。

家での「ふんふ〜ん」って言ってる自分をもっと出したら?

という会話から始まって、

急に泣き出してしまった。

多分今そこがタイミングだってどこかで分かってて、

核心に触れられたからだと思う。

 

やっぱりここでも「ちゃんとしなきゃ価値がない」という思い込みが出てきた。

その先にあるのは見放されて一人になる恐怖だった。

 

その思い込みは幼少期の経験で出来上がったものだけど、

それをまず”嘘”であることを自覚し、

そこから自分はちゃんとしなくても価値があると

潜在意識に刷り込ませるために、毎日毎日声に出して言うのだと。

 

正直これは本当に痛いとこで、できればやりたくない。

けど、今やるべきタイミングなんだって思って、

自分のことは信じられないから言ってくれた人を信じようと思った。

 

 

感情の動きを書くと、

素の自分をもっと出せばと言われた時は

本当に勝手に涙が流れた。

来たかーーって感じに近いかも。

あと同時にまたそこかって。

あとは他にもそう言ってくれる人(ちゃんとしなくたって価値あるよって)

が今までにもきちんといたのに、受け取れてなかったんだなぁという

申し訳なさも。

 

表も裏も受け取る必要がある。

一つは、1人になることを恐れていることに気づくってこと。

そして、1人になるのがウソってことに気づくこと。らしい。

むずい。

 

とにかくこの感情日記は続けていこう。

思ったことを、つらつらと。

今日後輩と話していて、

すっごく視野が狭くなっていたことに気がついた。

 

目の前の問題を解決しなきゃ。

解決してから次を考えないとって。

 

あとはその”問題”と思ってることって、

あくまで私が正しいと思い込んでいたものであって

彼らには彼らにとっての正しさがあるのかもしれない。

もしそうだとしたら、

私の正しさの一方的な押し付けだし

変えようとすること自体が間違っていたのかもしれない。

そう思うと少し楽になった。

 

 

私が大事にしたいものは”繋がり”だった。

ライブが好き、あの一体感が好き、というのもそこだったみたい。

繋がってる感覚、繋がりのある環境、これを求めていたみたい。

だから今の環境が合わなかった。

けど、自分がこの人を支える!と腹を括れば繋がりは出来たはず。

そう思えない。

 

 

みんな好き。

周りもそう言う。

みんな、いい人。

そう、いい人だったんだ。

去る者追わず、踏み込まない。

私もそうだった。

けど、影響を受けた。

私はいい人でいるよりも、影響力のある人になりたい。

 

 

自然体でいる。

自分の心を大事にする。

損だと思うことを指標にする

なんだか上手くいってないという状態がずっと続いてる。

7月から。

そんで昨日ズドーンって刺さること言われたから書いとく。

 

お互い相手が悪い、相手のせいにしていて何も変わるわけがない。

悪い状況を作ってる人に良くしろというのは難しい。

気付いた人、分かってる人が変えるしかない。

損するなと思うことを指標にする。

何が正しいか、じゃなく自分が正しいと思うこと、自分が感じたことを伝える。

「稼げてないから」とか関係ない。

それが勘違いだったり間違ってたら素直に謝ればいい。

 

 

もう今 変わるべきだ。

その前に振り返りたくてこれを書いてる。

 

まず7月2週目に許せない腹立つことがあった。

そこから家族のことで1週間仕事しない状態が偶然重なって

過去を振り返ってみた。

ずっと違和感を抱えながらも言わずに飲み込んだり、

「私は稼げてないから」という言い訳で

自分の中では間違ってると思うことでも従ったり、

とにかく、自分の意見をずっと無視してた。自分で。相手のせいと言い訳して。

私はこう感じる、こう思う、これが正しいと思う。

こういった意見を、「稼げてないから」「私が間違ってるから」と条件付けして

伝えることから逃げていたのだ。

 

それを10ヶ月も続けているうちに、

自分に対する信頼まで失う結果になってしまった。

「稼げないとダメ」という条件を自分で作ってたから、自信も無くなっていた。

 

そういう状態になっていた、ということに

ようやく気付けたのだ。

それが7月の22日ごろまで。

翌日の月曜日にこのことを話そうと決めたのに、そこでも肝心な部分を話さなかった。

相手に悪気はないのに、自分が被害者になってこんなこと言うのは

「かわいそう」と思ってしまった。

でも本音は自分を悪者にしたくないとか、自分が間違ってるかもしれないことを認めたくなかったんだろうと思う。

自分の意見が正しいか分からないから不安だった。

恥ずかしいとか馬鹿にされたくないとか否定されたくないとかそんなところ。

 

話を戻して、肝心なところ以外は話して表面的には元に戻ったように見えた。

というかあまり関わらないようにしてた。

そこで8月のお盆に起きたのが、解散事件だ。

パートナーから突然、経済的にきつくてもう楽になりたいからお互い実家に帰ろうと提案されたのだ。

そこで私は、稼げてない自分を強烈に否定していたことに気が付いた。

もちろんそれまでも認めてないとは自覚してたが、

ものすごい根深いところまで影響してるとは思ってなかった。

 

 

そんなところで今にいたるのだけど、

昔から目標としていた「自分で稼げる力」というのは本当の望みではなかったのだ。

”お金がないと大丈夫じゃない”というネガティブな要素から来るものだった。

 

解散事件の時に、まさにここに直面したわけだけど、

後から気づいたのが、あの時私は「大丈夫だよ」と心から言ってあげたかったということ。

昔からこういうことが万が一起きた時に、大丈夫なように私1人でも稼げる力をつけなければいけないと思い込んでいたが、本当の望みは、何が起きても大丈夫だよと心から思えることだったらしい。

だからその手段としてお金があれば大丈夫と思えるという、

逆にいうと「お金がない=大丈夫じゃない」みたいな思い込みがあったらしい。

 

まとめ

今の課題は、お金のブロックと損だと思うことに踏み込むこと。

 

 

 

批判する人間とされる人間

「匿名で批判だけする人になるくらいなら、進んで批判される人になれ」

 

といったような趣旨の言葉を以前どこかで見かけた。

この言葉が、脳天突き刺さったような感覚でピンときた。

 

 

物事はあくまで表面的に出ているもの(行動や結果)でしか

当の本人以外には分かりようがなくて、

本当はそこには思いやりや愛があったとしても

結果的に「排除」という選択が行われてしまったら、

周りの人間はその結果から自分の思いたいように捉えてしまうのだ。

 

結果だけを見て批判する人もいるだろう。

その批判に対して共感する人もいるだろう。

むしろそっちが大半だろうと思う。

 

でも、その結果に至るまでにはどんなストーリーがあったのだろう?

最後まで諦めずに誠意を尽くしたのかもしれない。

それでも結果的にそうなってしまったのかもしれない。

そんな背景があったとしても尚、批判するのだろうか?

そんな背景に自分の身が置かれたとしても、同じことが言えるのだろうか?

 

 

私は、批判する側だった。

その背景を聞こうともせずに。

事実を知った時に、思った。

 

私のような人間に対して、いちいち弁解していられないと。

批判される側の人間というのは、そんな暇な時間などないのだ。

 

 

ここで批判される側の人間(つまり、”やる”人間)にとって

大事になってくるのは、自分の中の判断基準。

 

どういう人と自分は関わっていきたいのかを明確にし、

それ以外の人たちを手放す勇気も必要になってくるのだ。

 

手放すというのは、何も見捨てるという意味じゃない。

自分の意図と違った捉え方をされても、足掻かないということだ。

人は所詮自分の捉えたいように捉える。

その人の境遇や生い立ち、経験からでしか物事を考えられない。

もっと言うと、その日の心の健康状態によっても捉え方は変わってくるのだ。

それなのに、全ての人に伝わるように伝えようなんて、到底無理な話。

 

だからこそ、関わりたい人を決める。

何故それをやるのか。

何故それを伝えたいのか。

自分の軸を力強く持つことが大切。

 

これはちょうど今日考えたことだった。

 

有名とされている人みんな、同じ道を経験してきてるのだろうなと思ったら、

批判される側の人間が発する言葉の数々の意味が今ようやく分かってきた。

皆そんなの分かった上で、乗り越えながら自分を表現し続けているのだ。

 

そこまでピンときて、怖いからって発信しないという選択肢は、

もう私にはないなと思った。

 

批判する人っていうのは所詮”やってない人間”であって

批判される側からの景色を見たことがない人たちなのだ。

 

だったら進んで批判される側になろう。